昭和52年5月11日朝の御理解       
                             入力 広崎克一
 第58節
『人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃと言うても、もらいに行かねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ。』

  神様が見てござる、聞いてござるということがだんだん信じれてくればくるほど、どんな場合であっても動じません、どんな事をいわれても神様のご都合として、いうならば、受け流すことが出来ます。
 ですけれども神様が本当に分かっていない、ここで神さまを分からしてもらおうとする精進をする者は、ここに心はです、その体験を通らせて頂くということは実はありがたい事なんです。
 神様を信じている、神様が見てごさるから、見てござるからと信じておれたら人がどういう事を云おうが神様が見てござるから、だから問題じゃない訳です。
 ところが私達の場合神様を信じていると云うても本当の信心の型が出来ていない、だからそれでも神様を信じたい、同時に神様からも信じられたい、それがお徳ごうです、神を信じ神からも信じられたいそのお徳を受けたいという願いをもっておるのならばです、いよいよ神様を信じさせてもらいれる手立てを、いろんな修行をしたり手掛かりを頂いて徳を頂く信心を積むのです。
 けいども人が泥棒じゃという乞食じゃということはどういうような場合があってもどういうことがあっつてもということ、そう言う時に動じで動揺せんですむ、ですから、いうならば本当に神様を分からしてもらい信じさせてもらう、いうならば、機会を得たということになるのです。
 私は今日この58節はしういういう風にギリギリの頂き方、お互い信心さして頂いておかげ頂きたいと思う、そのおかげはお徳に伴うおかげでなからなれれば本当のものではないということがダンダン分かってくる。
 そこでお徳を頂く為には、先ず神様が信じれれる信心、『神を信ずる氏子は多いけれども神から信じられる氏子が少ない』先ずは神様から信じられないとならないけれども神を信ずるをいうことが先なんです、「神を信ずる者が多いが」と仰るが最近では多いといわれる「神様を信じております」と云う人も非常に少なくなったということです。
 神様を信じて疑わない神様の働きを信じて疑わない、ですからいよいよ神様が信じれれることの出来る、成る程あの人がその時私に「泥棒というたり乞食と云うた」が神様が見てござると思うて神様辛抱さして頂きよったら、それがこういう結果になってこういうおかげになった、あーゆう時にお徳になったんだろうかというような、いうならば、信心の素晴らしい、いうならば、思い出が出来ることになるのです。 
 私共の修行時代はもういろいろ云われてまいりました、顔から火がおでるような事もいわれてまいりました、神様を信じていると言っても、今日のような訳にはまいりませんから、もうそれこそ歯を食いしばっての辛抱でしたけれども、やはりそこを辛抱さして頂いておりましたら、神様がやっと顔を洗って下さる、なるほど神様が見てござったな、聞いてござったなということが体験さしていただける。 
 天地の久留米の支部の大祭の時 ・・・?久留米市長さんご夫婦で、それから県会議員は秘書同伴で来て頂いたいよいよお直会ということになりましたら、もう本当に私は行き届いているといえば行き届いておられると思いましたね。
 あのうあれだけの百人からのひとつひとつ杯を注したりもらいに歩かれましたよね、なかなか県会議員は地が低いなかなか、まあ云うたら、大衆受けがよいはずだ、そらあもう、あるべつ県会議員から今日は握ってもろうた、握手をしてもろうた久留米の市長さんからこうしてもろうたああも云うてもろうたと、私は、ゆわゆる、先生に対して挨拶に一軒いっけん回っておられるのを見てから何か知らんけれども寂しいなあと思うた、あれが今の政治家だなあと思うた。
 ●2、3そしたら神さまからちゃんと頂いた「きれいな造花だ、この花まるで本まもんごとあるというでしょう、きれいにできた花、造花です、なるほど本まもんち、と言うて、今度はまた、本当な花が見事に咲きます「まあこれは綺麗に咲いてる、まるきり作り物ごとある、あんまり見事に咲いてるから、合楽の場合はね、あんまり素晴らしく咲いてるので、人が「合楽はサクラを使ってるじゃなかろうか、」と言われるような処がある、いうならば、真実性を欠く如くに合楽はおかげを受けておるという事です。
 例えばここで必要な物が必要に応じて頂けるとか現われてくるいったような事が「これがそうですよ、あれがそうですよ」というて、こんなことがあるじゃろうかというて、本まもんだからこそ、そういう本とのおかげが伴うてくると私は思うです。
 私は信心とは本当なものを目指す事なんです、如何にも本当のものにしとりますけど、いよいよそれに塩をかけられますと尻尾を出す茶釜じゃないですけれども、少しきついことがあったり、いわば癪に障るような事を言われたりするともうそれで尻尾を出してしまう、『本なもんじゃなかったわいなあ』と神様が思われる、だからそれに神様が信用なさる訳がないです。
 いよいよどんな時であっても「色さえ変える庭の松かも」雪が降ってれば雪が降る返って風情を見せる、いわば、松の緑のような信心、だからなかなか始めからできません、始めの間はそれこそ歯を食いしばっての辛抱ですけれども、その都度に神様をいよいよ広く深く信ずることが出来る、信ずることが出来るから人がどういうことがあっても何と云うても、いわゆる、神様の世界に生き抜いていくことが出来る、そこに始めて神様のご信用というものが付くもんだと思います。2,3●
 『しっかり信心の帯をせよ』、ですから本当に生神金光大神様と称えて「こんなことを言われます、こんな事を」と言う時に私は信心の帯は締めて、締め上げていかなければならないもんである、神様が信じれたら、何時もゆっくりとゆったりと締め上げんでも楽に頂いていけれるおかげが頂けると思うです。
 云うなら子供から馬鹿といわれて腹を立てる大人はありませんでしょ、時々ありますよね、こどもから悪口をいわれて本気になって腹かく大人がある。
 栄四郎がまだ細か時ある人が、その人はいつも、こうやって、ダルマさんのように伸ばしてある、わたしはお結界、後ろが障子でしたよ、その方が参ってきたら後ろに栄四郎がいましたよ、「おっちゃん妙な顔しとんの」とちっ、そんな事云うと思って、それっきり腹かいて、ぃっ時ばかり参って来なかった。
 本当に自分が妙な顔しとるという事を先ずはね、知らなきゃいかんです、云われればいわれるについて、例えば泥棒とか乞食とか、それこそ根も葉もないことを云われても信心を頂き教えを頂いて、いうなら自分という者を顕微鏡で覗くような気持ちで自分という者を見究めると、自分の心のなかに泥棒が住んでいる乞食根性があることに気付くです。
 ですからその都度に自分が妙な心を持っていることを気付かせて頂いたら、云うてくれた人にお礼がいいたいような心が生まれてくるのが信心です、それが本当のもんです。
 もうひとつ、私は本当のものを目指すことだと思います、信心とは。でなかったら本当のおかげは伴いません、それはまるっきり、本当じゃないようなおかげが伴うてきます、それはまるっきり作り事まんごとあると云われるぐらいのひとつおかげを頂きたいですね●2-1ヶ 3-1ヶ
                            どうぞ。